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悲しみは喜びへ ヨハネの福音書16章16~24節

【新改訳2017】

ヨハ

16:18 こうして、彼らは「しばらくすると、と言われるのは何のことだろうか。何を話しておられるのか私たちには分からない」と言った。

16:19 イエスは、彼らが何かを尋ねたがっているのに気づいて、彼らに言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る』と、わたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。

16:20 まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。

16:21 女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。

16:22 あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。

16:23 その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。

16:24 今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。

 

ロマ

8:26 同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

8:27 人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。

先日、大洗キリスト教会でグリーフケアセミナーという、悲しみからどう抜け出すのかというセミナーがありましたが、そこで講師の先生が、生涯をかけて癒されていく必要のある悲しみもある、だからあなたはまだ泣いているのとか、まだ傷ついてるのとか、神様によって簡単に喜びに変わるよと簡単に言ってはいけないということを学びました。生涯をかけて癒されていく必要のある悲しみ、長い時間をかけてその意味を探さなければならない悲しみもあります。イエス様は、この悲しみの意味を探す旅に寄り添って下さる神様です。

ヨハネ16章全体のテーマは、「悲しみは喜びへ」です。15章後半で、イエス様は弟子たちに、これから起こる悲しみを前もって知らせました。しかしイエス様が伝えたのは、これから来る悲しみだけではありません。その悲しみの後に喜びが待っていることを伝えました。どうしてイエス様は悲しみ、その後の喜びについて先に知らせたのでしょうか。それは弟子たちが悲しみに備え、悲しみを突破するためです。悲しみの後に喜びが待っていると弟子たちを励まし、悲しみに備えさせたのが16章なのです。16節の前半、「しばらくするとあなた方はもう私を見なくなりますが」、これはイエス様が十字架にかかることを意味しています。イエス様は十字架にかかって死ぬことで、弟子たちのそばからいなくなります。しかし16節後半を見ると、「また、しばらくすると私を見ます」、「またしばらくすると私を見ます」とあります。これには色々な説がありますが、大方の人はペンテコステの出来事、弟子たちに聖霊が下る時の出来事を指していると解釈しています。「またしばらくすると私を見ます」、この弟子たちのうちに聖霊が宿って、内におられるイエス様を、まるで見たかのようにはっきり知るようになると言うのです。イエス様の十字架の死は、とても悲しい出来事です。しかし、その悲しい出来事によって私たちの罪がゆるされ、永遠に神様と共に生きることができるようになりました。イエス様は、弟子たちが目の前の悲しみだけを見ないで、その後の喜びに向かって歩むように励ましています。弟子たちは、イエス様が何を話しておられるのか分からない率直な気持ちを吐露しましたが、分からないなりに悲しみの中で前進しています。弟子たちは5節が語られた時、これから来る悲しみにたじろいでしまって、イエス様に簡単な質問さえできなませんでした。でも、弟子たちはイエス様のみことばの意味を論じ合っていて、イエス様にみことばの意味を尋ねたがっていました。19節を見ると、「イエスは彼らが何かを尋ねたがっているのに気付いて彼らに言われた。」と記されています。弟子たちは5節の沈黙からイエス様に尋ねる、問うということを始めました。これは悲しみの中で、弟子たちが少し前進していることを指しています。冒頭でお話したように、大きな悲しみの意味は簡単にはわかりません。長い時間をかけて、私たちはそれを理解していきます。ただ最初の一歩として、この悲しみの意味を祈りの中で問うことが大切なのです。主よ、私にはわかりません、どうしてこんな悲しみがあるのですか。このように神に問うことができるということは、悲しみの中の前進なのだということを、今日の箇所は教えてくれると思います。その静かな祈りの問いかけから、悲しみは少しずつ喜びへ変わっていきます。イエス様は弟子たちのこれからの悲しみを、子供を産む前の陣痛に例えています(2022)。子供が生まれる前の強烈な痛みは、子供が生まれた後の最高の喜びのために必要です。弟子たちはイエス様の十字架の死を悼みますが、周りの世の人たちは喜んだという最悪の状況が、イエス様の復活によって喜びに一変しました。私たち自身の悲しみや周りの人たちの悲しみがどう逆転して行くのか分からりません。でも私たちを愛する主は、私たちのこの人生の先に、逆転の計画を立てて下さっていることを信じて、自分の悲しみの意味を問い続け、周りの人たちの悲しみを支えていくものでありたいと思うのです。

16:23,24はペンテコステの出来事です。私たちはもうイエス様に何も尋ねないと23節に書かれています。それは聖霊が弟子たちの内におられ、イエス様のみことばの意味をはっきりと教えるからです。弟子たちはペンテコステの日、イエス様の生涯、十字架、復活昇天、今までの出来事全てに意味があったこと、全てが繋がっていた事を知りました。自分が頭を抱えていた悲しみも、全て神のご計画のうちに起こっていたことを知ったわけです。弟子たちはペンテコステの出来事が起こる直前まで部屋に籠もり、神様に尋ね続けました。そして悲しみの意味にたどり着いたのです。問い続ける、尋ね続ける、というのは悲しみの中でなんと難しいことでしょうか。しかし私たちのうちにおられる聖霊は、私たちが神様に問い続ける、尋ね続ける力を与えてくださいます。私たちのうちに、もうその聖霊様が住んでおられます。

ローマ8:26,27を読んでみましょう。26節で、何をどう祈ったらよいかわからないということばがありますが、このような経験を皆さんはそれぞれお持ちではないかと思います。悲しみの中で何をどう祈ったらいいのか、神様が何を考えているのか、自分がこれからどうなっていくのかわからない。ただ深い呻きだけがあるという状態です。しかし聖霊は、私たちのこの心の言葉にならない呻きも、神様のところに届けて下さいます。私達の言葉に出来ない呻き、これは周りの人たちには理解されないと思いますが、その言葉にできない呻きも、唯一わかってくださるのがイエス様です。私にも祈っている途中で何をどう言ったらいいかわからなくなるという経験があります。そういう時は、しばらく沈黙していていいのです。神様はその言葉にならない呻きをわかって下さっているからです。私たちの内におられる聖霊が、私達の言葉にならない呻きを神様に届けてくださると信頼し、沈黙することも祈りの一つではないでしょうか。聖霊は私たちに問い続ける力を与えてくださいます。

最後に24節だけ見ましょう。たとえ完全に言葉にならないような呻きの祈りでも、イエス・キリストの御名によって信仰を持って祈る時、その祈りは神に届きます。問い続け、尋ね続けましょう。それが喜びへの一歩目になるということを、今日の箇所から私たちは学んで、問い続け、尋ね続ける信仰者でありたいと思います。

 

愛する天の父なる神様、みことばをありがとうございます。「神様を信じたら、全ての悲しみから解放されました。」そんな簡単なことだったら何と良いでしょうか。しかしあなたは、私たちの大きな悲しみをも用いて、私たちを真の成熟した信仰者へ成長させるお方です。私たちには、今深い呻きがあるかもしれません。その呻きは言葉にできず、言葉にすることも恐ろしいようなそんな悲しみが心の内にあるかもしれません。しかしイエス様はその呻きをご存知です。その呻きは、もうすでに神様の御許に届いています。主よ、どうぞ私たちが呻きながらかもしれませんけれども、その悲しみの意味を知ることができるように導いてください。人間の目からは最悪の出来事であるイエス・キリストの十字架にさえ、大きな大きな意味がありました。どうか私たち一人一人の悲しみの上にも、あなたが共にいてくださいますようにお願いいたします。