· 

主にある勝利 ヨハネの福音書16章25~33節

【新改訳2017】

ヨハ

16:25 わたしはこれらのことを、あなたがたにたとえで話しました。もはやたとえで話すのではなく、はっきりと父について伝える時が来ます。

16:26 その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません。

16:27 父ご自身があなたがたを愛しておられるのです。あなたがたがわたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからです。

16:28 わたしは父のもとから出て、世に来ましたが、再び世を去って、父のもとに行きます。」

16:29 弟子たちは言った。「本当に、今あなたははっきりとお話しくださり、何もたとえでは語られません。

16:30 あなたがすべてをご存じであり、だれかがあなたにお尋ねする必要もないことが、今、分かりました。ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。」

16:31 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。

16:32 見なさい。その時が来ます。いや、すでに来ています。あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。しかし、父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません。

16:33 これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」

皆さんにはアイドルとかスポーツ選手とか、応援している人(推し)がいるでしょうか。彼らを推す、応援することを「押し活」と言います。押し活をする若者たちはイベントに行ったり、物を買って集めたりして楽しんでいます。そして誰かを押すことによって、一緒に押す仲間ができたり、人生に充実感を覚えたりする人たちがいる一方で、自分の方を向いてくれない推しに刃物を向けるようなファンもいました。また応援している推しが引退したショックで、自分も仕事を辞めてしまうとか、ひどいケースでは命を絶ってしまうこともあるそうです。大好きな人とはお互いを深く知るような関係になりたい、そう考えてしまうのは、私たち人間の性(さが)なのかもしれません。この世界を作られた神様は、皆さん一人一人に無関心な方ではありません。神様は私たち一人一人と、深い関係、親友以上になることを望んでおられます。私たちの心には罪があって、それが時に神様を拒絶しますけれども、しかし神様との愛の関係こそ私たちに最も深い喜びを与えるのだと、聖書は教えています。今日は神様とどのように親しくなっていけばよいのかということを、聖書からから学んでいきたいと思います。

「父」とは父なる神様のことです(25)。そして「はっきりと父について伝える時」とは、ペンテコステと呼ばれる日です。弟子たちのうちに聖霊が宿って、この日に父なる神様についてはっきり知ることができるわけです。人間は本来、神様を深く知ることができません。皆さんは良いことがしたいのに自分はしたくない悪いことをしてしまった、嘘をついてしまった、誰かに酷いことをしてしまったという経験があるのではないでしょうか。この罪が神様と私たちを離れさせるので、本来は、神様について私たちは深く知ることはできないのです。しかし2000年前イエス・キリストという方がこの世に降りてこられ、神様と親しい交わりを持つことができるようにして下さった、これが聖書のメッセージです。へブル725に「とりなす」という言葉があります。これは、間に立つという意味です。イエス様は神様と私たち罪人の間に立って、とりなしの祈りを今日も捧げて下さっています。私たちには、習慣的に止められない罪、私たちを何十年も支配している罪があるかもしれませんが、イエス様はその罪の赦しのために祈って下さっています。神様、あの人の罪をどうかお許しください。私はあの人のために十字架にかかったのですと。私たちが今日心に留めるべきは、イエス様は今日も私たちの罪の赦しのために、生きて祈り続けてくださっているということです。だから現代の私たちは、父なる神様を祈りによってはっきりと知ることができるのです。また祈りについて「その日にはあなたがたは私の名によって求めます」と書かれていますが(26,27)、クリスチャンはイエス・キリストの御名によってお祈りします、というふうに祈りを捧げます。私たちはこのように祈る時、父なる神様を深く知ることができます。なぜなら、イエス様は今日も、私たちが犯してきたその罪のゆるしのために祈って下さっているからです。神様は私たちを見捨てません。私たちには深い信頼関係を望みつつも、離れていった人や、もう会いたいけれども会うことができないような人がいるかもしれません。ただイエス・キリストの御名によって私たちが父なる神様に近づく時、神様は私たちを愛し、離れず、祈りを聞いて下さっています。また、皆さんの周りで不安定な人間関係があるかもしれません。その人の気分によって、またその人に有益かどうかによって、大切にされたり大切にされなかったりする、そういう不安定な人間関係です。しかし私たちが罪人であろうと、つまらない人間であろうと、神様は私たちの祈りを聞き、私たちを愛してくださっています。それはここに書かれているように、イエス様が私たちと神様の間に立って、今日も祈っておられるからです。

そしてイエス様の励まし(2527)に対して、弟子たちはどのように応えたでしょうか。イエス様の言葉を聞いて、弟子たちは信じますと言いました(29,30)。信仰告白が記されています。弟子たちはたくさんの葛藤の中で、この信じますという信仰告白に導かれたのです。15章の後半から、イエス様は弟子たちに対してこれから起こる悲しみ(これから人々に憎まれ、厳しい態度で接せられ、迫害される)について話されていました。ですから弟子たちは、イエス様にあまりの恐怖で質問できない、何も話せないような状況でした。しかし弟子たちは、このイエス様のみことばを何度も聞くうちに、イエス様に質問したり考えたりする力が与えられ、そしてこの2930節の信仰告白に至ったのです。ただ、弟子たちは神様を本当の意味で信頼できていたわけではありません。「はっきりと父について伝える時」とか、「その日にはあなたが私の名によって求めます」とかは、ペンテコステの以降の出来事です。イエス様が十字架にかかる前夜の弟子たちには、父なる神様についてはっきりわかってなどいませんでした。ただイエス様は、この弟子たちの、不十分であったとしても信じますと言った、その信仰告白を喜んでおられるのがわかります。「信じます」、この告白がもっと深い父なる神様との信頼関係につながっていくのです。私たちのことも少し考えてみると、私たちには神様が何を考えているのか分からないような、悲しい出来事があるのではないでしょうか。神様がいるのにどうしてこんなに悲しい出来事が起こるのか、しかし弟子たちは、それでもイエス様のみことばを聞き、イエス様との会話をし続けていくうちに、イエス様を信じることにしたのです。不十分な信仰告白だったかもしれません。私達も、私たちは何が何でもイエス様を信じますとは言えないかもしれないですね。しかしそんな不十分な信仰告白であったとしても、イエス様は喜んで私たちを神様との親しい交わりの中に招き入れて下さいます。

イエス様は弟子たちのその信仰告白を聞いて、あなたがたは今信じているのですか、と言いました(31)。イエス様はペンテコステの日を待たずに、信仰告白をした弟子たちをこうやって喜んでいるわけです。ただ弟子たちは、更なる信仰の高みに至るために試練を通らなければなりませんでした。それは自分の罪を思い知ることでした。心の痛む経験です。32節に書かれているとおり、弟子たちはイエス様が十字架にかけられる時に散り散りに逃げて、イエス様を一人残してしまいます。2930節の信仰告白はいったいどこに行ったんだというほど、簡単にイエス様から離れていきました。でもその悲しい経験によって、自分の罪、自分には自分ではどうしようもできない罪があるのだということを思い知らされました。それが、後で父なる神様に完全に信頼することへとつながっていくわけです。十字架はすごく悲しい出来事でしたが、弟子たちは祈って祈って、神様に問い続けることをやめませんでした。そしてペンテコステの日に、あの十字架の悲しい出来事の意味を悟ることになったのです。私たちにも、ただただ悲しいだけだったというような記憶、出来事があるかもしれません。それは父なる神様に問い続けましょう。うめき続けましょう。聖霊の導きの中でその意味を悟れる日が必ず来ます。「世にあっては苦難がある」の直前には、平安を得ると記されています。ここからわかることは、平安とは苦難がないことではないということです。御利益宗教はこの教えを信じれば、これに献金をすれば、苦難や悩みが消えますよなどと言います。しかしイエス様は違います。この世には苦難があると断言します。私たちの人生に敗北があるとするならば、この苦難によって、もうどうでもよくなり、罪と悪に染まり、神様から離れてしまうことです。ただ苦難の中でも私たちが祈りを捨てないのであれば、私たちには平安と勝利が待っていると、今日のみことばは私たちに約束しているのではないでしょうか。私はすでに世に勝ちました。イエス様は人間としてこの世に降りて来られて、悪魔の誘惑や権力者達からの迫害や十字架の死と戦って勝利しました。イエス様に越えられない苦難はありません。そのイエス様が、信じる者の内に住んでおられ、私たちを勝利に、今週も導いておられます。勇気を出しなさいと記されていますが、私たち一人ひとりにも語られている言葉です。勇気を出して祈りつつ、私たちはこの信仰の道を進んでいきましょう。

 

天の父なる神様、みことばをありがとうございます。富を得る、名声を得る、賞賛を得る、それはこの世の勝利です。いずれ無くなってしまいます。しかしイエス様は唯一、罪に苦難に勝利されました。そしてその勝利を、信じる私たちにももたらしてくださいました。私たちは苦難の中で祈りを捨てず、主の交わりを大切にして歩ませてください。悲しみが喜びになるまで、悲しみの意味がわかるまで、どうぞ私達と共にこの人生を歩んでくださいますように。(2024年3月10日礼拝 武田遣嗣牧師)